丸まった針の先に視線を向ける

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藝大在学中に生み落とした文章や想い達 かわいいかわいい我が子

野田秀樹 赤鬼 劇評

こんにちは、いくりです。

今回は以前執筆した、野田秀樹さん赤鬼についての劇評を掲載いたします。

 

赤鬼

初演は1996年、現在は映画館になっているパルコパート3のスペースで行われた。90年代、夢の遊眠社解散してイギリス留学した野田秀樹が帰国後、新しく作った演劇集団NODA MAPでの作品。原点に戻ったともいえる小劇場の小さな舞台で初演されたこの舞台はその後10年にわたって、イギリス、タイ、韓国でもそれぞれの国のバージョンで上演された。

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今回は初演版、タイ版などをもとに執筆いたしました。

ぜひご一読ください。

 

 

認知の絶望

 

「空にあるのはUFO、海を漂うのが未確認泳いでいる物体。Unidentifited Swimming Object 略してUSO ウソだ。」


野田秀樹作品は一貫して直接的な問題提示を避ける傾向が見られ、言葉遊びや身体を通じてメッセージを投げようと舞台を疾走する。今回の舞台赤鬼も同様にそうであり、直接的な批判の形を取ることはない。野田秀樹の演劇にしては珍しく時間軸や場所性の複雑な交錯もあまり見られない今回の舞台は人の根底にある物をシンプルに語りかけて来るようにも思える。複数の物に可変する小道具や舞台はストーリーに重層性を見せることで観客のイメージを解放させ、四方から観客の視線に囲まれるオープンステージでの上演が試みられたことにより、観客達も村人達の一員、差別する人々として舞台に取り込まれているかのようにも思える。


赤鬼、とんび、ミズカネ、そしてあの女の四人で展開されて行くこの物語は、波に揺られる四人を抽象的な動作で示すところから導入され、あの女が身を投げるに至るまでをとんびの言葉から見せられていく。外国人が演ずる赤鬼と呼ばれる得体の知れない人物を巡って人間の根底にあるものを映し出していく。本作品、野田秀樹の戯曲”赤鬼"には中心的なテーマとして差別や偏見に関する問題が取り上げられている。

またこの作品を語る上で差別問題と並んで存在する重要な要素として"認知すること"があると捉えられる。自分が赤鬼を食べていた事実を知ったあの女は崖から身を投げ、赤鬼の正体を知らない村の人々は"鬼"を恐れ排斥した。死の直接的な原因としては"絶望"なのだろうが、あの女はあの日海の上で食べていたものがフカヒレでは無かった事を知ってしまった、それがきっかけとなっている。もし村人が赤鬼の言語や正体を知っていたらどうなっただろうか。一概には語り得ないが偏見の影には知らないものへの恐怖が存在しているのかも知れない。
日本に知らぬが仏という諺があり英語には Ignorance is bliss(無知は至福である)といった表現があるように、世界共通の認識として知らないほうが良いとされる状況がある。人は根源的な欲求として知的好奇心を持つ一方で、時に無知は大きな役割を持つ。私たちはしばしば事実を認知し、それを認める事を恐れる時があるり、事実は時に残酷である。あの女が赤鬼を食べた受け止め難い事実を受け入れたのは、海の上で絶望のようなものを感じた経験があってのことかもしれない。

あの女は未知の生き物として赤鬼と分かりあおうとしたが根本として理解し合えないものは依然として残されたまま物語は展開し、ミズカネが作り上げたUMO(未確認泳いでる物体)の話は人々が無知でることを語る上での布石となっていた。 頭の少し足りないとんびを除き、彼らの海の向こうへの知的欲求は尽きることなかった。
野田秀樹の演劇は意味の重層性が高く、高尚な知識を要することもある。本作も人種や地域による差別、人肉食等の歴史を知っているか否かでは意味合いが大きく異なるだろう。私達は知を求めることを強いられているのである。そしてそれがどんな"絶望"に繋がっていようとも、当然の如く私達は知ることをやめないだろう。

 

 

 

 

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