丸まった針の先に視線を向ける

丸まった針の先に視線を向ける

藝大在学中に生み落とした文章や想い達 かわいいかわいい我が子

劇団フェリーちゃん 旗揚げ公演「Ma les me Role」 劇評

僭越ながら、先週観劇した舞台の劇評を書かせていただきました。

ご一読いただければ幸いです。

 

 

劇団フェリーちゃん 旗揚げ公演「Ma les me Role」

 

 

躍動する身体と言葉、そして意志が、密な舞台に広がっていた。

 

新宿眼科画廊 スペース地下にて2017年5月、劇団フェリーちゃん旗揚げ公演「Ma les me Role」が上演された。田野ひより原案の脚本を14人で演じた今回の舞台は、旗揚げにふさわしい公演だった。

 

王国には、原因不明の死に至る病が蔓延している。病が王宮内にも魔の手を伸ばす中、薬の研究は追いつかずにいた。水沢まな美演じる王女、シェリーは王国の危機に焦燥感を募らせる。肩書きでなく本物の女王になるという願いを内に秘め、自身に出来る事はなにかを考え倦む。そこに現れた、なにわえわみ演じる謎の吟遊詩人、ユキサカ。やけに道化に振る舞うユキサカに導かれ、人々は渦巻く水の中へと航海を始める。

 

コンクリートの壁に役者の影を縫うように掛かる重厚な絵画。成された空間は、居館となり洞窟となり、海原となった。役者の指が鍵盤を弾き、一音一音がユキサカの歌声と共に会場を包む。観客と役者の間に距離はほとんどなく、感情の波は否応なく私たちを巻き込んだ。

船に変貌するユーモラスを含む役者の身体に、詩的な歌に、壁を蹴る荒々しさに、観客は国の安寧を願わずにはいられなくなった。微笑ましい夫婦の会話、コミカルな海賊たちの掛け合いが笑いを誘い、物語後半の有痛性を助長する。

 

病の正体を知る者、身分に懊悩される者、最愛の人を失う者。それぞれが持つ宿命と悲しみ、願いが、イシに翻弄されることで呈露した。すべき、したい、の境界が曖昧な日々を送ってきた彼らの姿は、私たちであった。本当にしたい事は何、と劇中繰り返し投げかけられる問い。それは時折、観客に向けられている言葉となっていた。答えられない私たちは、悲しみに俯く役と相違ない。想いがあっても、あの密な空間やこの生活の中では、「答え」という言葉として形を成し得ないのかもしれない。

 

犯した罪に、絶望に多くの人が死に絶えて、残された人々の顔にも生気はない。願いのイシに仕える巫女の透き通った肌が青白く照らされ、目を離せなくなる。少しの沈黙の後、すべての人の願いと痛みを背負うようにして、ユキサカは笑みを浮かべた。彼らは答えを出した。出さざるをえなかったのかもしれない。

彼らの本当の願い、「イシ」を私たちは見た。

 

そしてそのすぐ影に、役者たちの意志の垣間見える公演であった。

劇団フェリーちゃんの大航海が始まった。

 

 

 

キャスト 

水沢まな美 / 奥津慶彦 / 半仁田みゆき / 合田考人 / 伊藤瑛佑 / 田口祥子 / 岩崎あゆみ

岡田勇輔 / 汀(風凛華斬) / いろは / ヤマモトリカ

ヒガシナオキ / 柚木成美

なにわえわみ

 

スタッフ

原案:田野ひより / 脚本・演出:なにわえわみ / 舞台監督:ヒガシナオキ

照明:江花萌里 / 音響:江口信(キャンディプロジェクト) /

美術:すみよしこ / 住吉美玲 / 小金井文珠堂 / 制作:水沢まな美

制作協力:黒田哲平(Voyantroupe) / 当日運営:志水淳

フライヤーデザイン:中谷篤基(夜弄(び)モンド・鳥の首企画)

 

劇団フェリーちゃん

     gekidanfelichan.wixsite.com/myship    

f:id:buttobi-sweetheart:20170503023802j:plain

 

 

 

 

記事を見ていただきありがとうございます。

今後とも応援よろしくお願いします。

ブックマークやコメントなど、お気軽にお願い致します。

 

 

 

日常を描き出す 散文

私たちが何気なく過ごし得て行く日々を言葉で描きました。

それはただの描写でもあり、自由な詩でもあります。

 

お時間ある際に、ぜひご一読ください。

 

手紙

 

日曜の夕方に、私は紙の専門店を訪れた。友人から聞いていた店は、駅から歩いて15分程度の場所に品よく建っていた。小さな鈴の音を鳴らして扉を開くとすぐに、色の濃度に沿った綺麗な並びが目に入る。図書館と同じ空気。そう広くない店内で、どこに何が置かれているのか、見渡すことができる。

 

棚に対うと、棚の一番端に収まっている深い紺の封筒に目がいく。薄っすらと光る粒を含んだなめらかさに惹かれ、迷うことなく手に取った。罫線のない種類の並びから便箋を見る。私は、目の細かい和紙のような質感が好みだが、封筒と見比べると、やはりさらりとした紙が似合う。白、クリーム色、淡い水色を手に取り封筒に挿し入れてみる。深い赤、薄いピンクも一度手に取り、また戻す。随分と時間をかけ、茶色の縁取りのある、クリーム色の紙を選んだ。

 

封筒一枚と便箋を3枚手に取り、レジの前で周りを見渡す。綺麗な髪を一つに束ね、シンプルな形のエプロンをした店員さんが、急ぎ足でレジに回り込んできた。慣れた手つきで商品を包む目がとても真剣だった。出口まで案内し、商品を渡しながら「またお越しください」と、笑顔を作った。すっきりとした一重の素朴な顔立ちが、やけに印象に残っている。

 

家に帰り、紙袋から厚紙と共に取り出す。最寄駅の本屋で、便箋に合うよう買っておいたペンで、適当な紙にぐるぐると円を描き、馴染ませる。少しのヨレもない一枚の紙を前に、修正液を使うことは許されないような気がして、鉛筆に持ち直す。

 

贈る相手はいつも連絡を取っている人で、何を書くべきか悩んだ。書き出しをしばらく考えて「元気にしてる?」と、よくある始まりの言葉を選んだ。次に自分の話を二行ほど書く。「買い物をした時、あなたの好きな食べ物を見て…」と、日常の瞬間のことも書いてみた。それから次々に言葉が出てきて、一枚目の便箋がいっぱいになったところで、点けていたテレビの音が耳に入ってきた。

 

息を吐き、キッチンへ向かう。大きめのマグカップにインスタントのコーヒーを注ぐ。湯気に乗って濃い匂いがあがってくる。新しく買っていたクリープの中ぶたを開け、目安より二匙多く入れた。大人になればブラックでコーヒーを飲めるようになると思っていたが、まだコーヒーは苦い。

 

スプーンを回しながら部屋に戻り、再び向き合う。一枚目に綴った言葉を読み直し、続きの言葉を選ぶ。続きに、2年ほど前の思い出話を書いた。いつも電話で言うようなことも、文字にして並べると、くすぐったい気持ちになる。慎重に言葉を選びながら、二枚と半分で書き終えた。一度読み直し、ペンでなぞりながら、もう一度読む。きっと伝わるだろう。

 

便箋の端を合わせ、文字を内側に、丁寧に折り目をつけた。紙の中心に入った一本の影が、罫線のように文字の下にぴたりと合った。半分になった便箋を封筒に入れる。三角になった封筒の口には、乾燥糊が引かれていたので、ヨレないよう控えめに指先を濡らし、フチをなぞった。ズレることなく綺麗に閉じられた封を見ると、少しの達成感を覚えた。

 

白のペンで宛名を書いた。名前、住所、郵便番号。綴を確認しながらアルファベットを書いていく。ペンを置き時計を見ると、15分前に郵便局が閉まっている。

 

家に切手はあるが、せっかく選んだ封筒に、古っぽい野花の切手を貼るのは憚られた。翌朝、家から一番近くの郵便局へ行った。ATMに立ち寄る時にいつも見かける40代の女性が、丁寧に並べて見せてくれたが、あまりしっくりくるものがない。今後使う予定がないので無駄使いになるが、好きなデザインを選ぶためシートで購入した。82円を二枚、貼る位置を確認して右上に貼った。白に赤い線で建物が描かれた切手は、紺の封筒に映えていた。

そのまま消

 

印が押される過程を見送った。

 

届くまで9日程度。

時間をかけて書いた手紙に、想いはどれほど乗せられただろうか。

 

 

 

f:id:buttobi-sweetheart:20170503020337p:plain

 

 

横書きのテキストが一般的になる中、原稿用紙に書いてみるのも、新鮮な思いで読み返すことができるので、書く人にも読む人にもオススメです

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

ブッックマーク、スターなどで応援よろしくお願いいたします。

野田秀樹 赤鬼 劇評

こんにちは、いくりです。

今回は以前執筆した、野田秀樹さん赤鬼についての劇評を掲載いたします。

 

赤鬼

初演は1996年、現在は映画館になっているパルコパート3のスペースで行われた。90年代、夢の遊眠社解散してイギリス留学した野田秀樹が帰国後、新しく作った演劇集団NODA MAPでの作品。原点に戻ったともいえる小劇場の小さな舞台で初演されたこの舞台はその後10年にわたって、イギリス、タイ、韓国でもそれぞれの国のバージョンで上演された。

f:id:buttobi-sweetheart:20170428234240j:plain

 

今回は初演版、タイ版などをもとに執筆いたしました。

ぜひご一読ください。

 

 

認知の絶望

 

「空にあるのはUFO、海を漂うのが未確認泳いでいる物体。Unidentifited Swimming Object 略してUSO ウソだ。」


野田秀樹作品は一貫して直接的な問題提示を避ける傾向が見られ、言葉遊びや身体を通じてメッセージを投げようと舞台を疾走する。今回の舞台赤鬼も同様にそうであり、直接的な批判の形を取ることはない。野田秀樹の演劇にしては珍しく時間軸や場所性の複雑な交錯もあまり見られない今回の舞台は人の根底にある物をシンプルに語りかけて来るようにも思える。複数の物に可変する小道具や舞台はストーリーに重層性を見せることで観客のイメージを解放させ、四方から観客の視線に囲まれるオープンステージでの上演が試みられたことにより、観客達も村人達の一員、差別する人々として舞台に取り込まれているかのようにも思える。


赤鬼、とんび、ミズカネ、そしてあの女の四人で展開されて行くこの物語は、波に揺られる四人を抽象的な動作で示すところから導入され、あの女が身を投げるに至るまでをとんびの言葉から見せられていく。外国人が演ずる赤鬼と呼ばれる得体の知れない人物を巡って人間の根底にあるものを映し出していく。本作品、野田秀樹の戯曲”赤鬼"には中心的なテーマとして差別や偏見に関する問題が取り上げられている。

またこの作品を語る上で差別問題と並んで存在する重要な要素として"認知すること"があると捉えられる。自分が赤鬼を食べていた事実を知ったあの女は崖から身を投げ、赤鬼の正体を知らない村の人々は"鬼"を恐れ排斥した。死の直接的な原因としては"絶望"なのだろうが、あの女はあの日海の上で食べていたものがフカヒレでは無かった事を知ってしまった、それがきっかけとなっている。もし村人が赤鬼の言語や正体を知っていたらどうなっただろうか。一概には語り得ないが偏見の影には知らないものへの恐怖が存在しているのかも知れない。
日本に知らぬが仏という諺があり英語には Ignorance is bliss(無知は至福である)といった表現があるように、世界共通の認識として知らないほうが良いとされる状況がある。人は根源的な欲求として知的好奇心を持つ一方で、時に無知は大きな役割を持つ。私たちはしばしば事実を認知し、それを認める事を恐れる時があるり、事実は時に残酷である。あの女が赤鬼を食べた受け止め難い事実を受け入れたのは、海の上で絶望のようなものを感じた経験があってのことかもしれない。

あの女は未知の生き物として赤鬼と分かりあおうとしたが根本として理解し合えないものは依然として残されたまま物語は展開し、ミズカネが作り上げたUMO(未確認泳いでる物体)の話は人々が無知でることを語る上での布石となっていた。 頭の少し足りないとんびを除き、彼らの海の向こうへの知的欲求は尽きることなかった。
野田秀樹の演劇は意味の重層性が高く、高尚な知識を要することもある。本作も人種や地域による差別、人肉食等の歴史を知っているか否かでは意味合いが大きく異なるだろう。私達は知を求めることを強いられているのである。そしてそれがどんな"絶望"に繋がっていようとも、当然の如く私達は知ることをやめないだろう。

 

 

 

 

お読みいただきありがとうございます。

今度とも応援よろしくお願いいたします!

絵の描けない芸大生もいるよ 東京藝術大学

私は藝大生ですが、絵が描けません。

 

小学校で毎年やっていた夏休みの絵の宿題は6年間全部佳作でした。

 

花火を書いてもお祭りの風景を書いても、海の絵を書いても佳作でした。

大賞ではありませんが、選外でもありません。本当にそこそこでした。

 

私の在籍する先端芸術表現科の入試にデッサンが必要なかったので

いま芸大生という肩書きを頂いています。

 

もちろんそれなりに作品を作り受験の対策はしましたが、わりと好きに作品を作っていました。(私が受けた年の試験は小論文 + 作品ファイル + 総合実技)

 

出来ることをやってたどり着いたのがここでした。

 

「芸大なら絵が上手いのね、似顔絵描いて」は最強の苦行です…。

 

たぶん単純に才能とかじゃなく合う合わないが存在していると思います。

私は、良きタイミングで良き巡り合い的な何かにずいぶんお世話になっています。

 

芸大を目指す人が私の絵を見て少し元気になったらいいなと思います。

 

全力で書いた宮田前学長と、サイ。

 f:id:buttobi-sweetheart:20170307232020p:plainf:id:buttobi-sweetheart:20170307231934p:plain

 

 

 

 ごめんなさい。

 

参考にならない、と怒られそうなので高校の時のデッサンを載せておきますね。

頑張って描いたやつですが、見る人が見たら目が当てられませんね。

f:id:buttobi-sweetheart:20170307233510j:plain

 

 ごめんなさいね。

紀行文 旅 巡らす思い

紀行文を書きました。

 

どこに向かうにも移動の時間があって、巡らす思いがあります。

少しだけ旅に出たくなることを願ってます。

 

 

巡らす思い

 

茶色い髪の女性が隣に腰を下ろした。自分より少し年上に見える彼女は、慣れた手付きで鞄を前の座席の下に押し込む。ポケットから取り出したイヤホンをすっと解くと、配られていたブランケットを膝に掛ける。濃いめに書かれた眉毛と大粒のラメのアイシャドウが印象的だ。

 

気を取られていると、髪を綺麗に留め、そろいのジャケットを着た背の高い女性が三人現れた。前方から頭上の棚を閉めて回る。タイミングを同じくして、アナウンスが入る。意識を向けているのに、何を言っているのかほとんど理解することが出来ない。シートベルトを見えるように締め、携帯だけを握りしめた。

 

窓に映る自分。中学の修学旅行が鮮明に思い出された。沖縄に向かう途中、窓から見えた景色に、懸命にインスタントカメラを向けた。カメラについての知識のかけらもなかった私は、どこでもフラッシュを光らせた。反射した光は、中と外の世界を遮断された。現像され帰ってきた写真には、窓に写った頭の悪そうな、尚且つとても楽しそうな自分の顔が写っていた。今でも少し、浮き足立つ自分がいる。

 

 

轟音と共に内臓が浮いてから、まだ映画を一本も見終わらない時間に食事が運ばれてきた。腕時計は一時半を指している。窓の外は真っ暗で、星のひとつも見つからない。これから食べるものがどの食事に属するのか分からないが、胃袋は微塵も気にしていなかった。懸命に聞き取った選択肢からビーフと答え、急いでテーブルを出す。本当はコーラを飲みたかったのに、頭に浮かんだコークとコーラ、どちらを言うべきか分からず言う。オレンジジュース。隣の彼女の慣れた振る舞いが、私を慎重に行動させた。

 

以前食べた食事があまりにも不味く、微塵も期待していなかったが、見事に裏切ってくれた。封を開けるとかすかに肉とペッパーの香りがする。ゴルフボールのようなハンバーグが二つ並んでいる。下敷きになった米がジャポニカ米だと気づくと、フォークの包みを開ける手が急いだ。食べ終えるまではほんの一瞬だった。私は、米に目がなく、日本人の米離れなんて都市伝説のような気がしている。

 

メインの他に小さなパンと、バターやジャムを受け取っていた。中に、品名の表示がない包みが一つだけあった。食べ終え、息を吐いた後だったが、細長いそれが気になる。角から二つ目の小さい山に狙いを定め、封を切る。ゆっくりと口元に運び、中からさらりと出る液体を舐める。味がしないので、改めてぐっと吸うが、それが何なのか分かる要素を得られない。謎が解けず、空になっている皿に流し出すと、つやつやとした黄色い液体。ああ、私はオリーブオイルを吸っていた変な奴だ。一瞬にして悟る。平静を装いつつ全神経を注ぎ、周りの視線を確認する。大丈夫、だろう。彼女は枕に頭を預けていた。

 

 

状況と気持ちをリセットすべく、絡まったイヤホンを伸ばし、途中で止めていた映画の続きを見ることにした。見始めが物語の終盤も終盤で、劇世界に戻る暇なくエンドロールが流れてしまった。少し腕を伸ばして画面に触れ、次に見る映画を探すが、気になるものも見つからない。仕方なく、話題になっていたディズニーの映画を選択する。吹き替えも字幕も、日本語がないじゃないか。子供も見るようなアニメーションだからきっと難しい英語ではないだろうと予想する。リスニングよりリーディングが得意だった私は、英語の字幕を選び、右向きの三角を押した。難しい言い回しはないのに、次々にセリフが逃げていく。色鮮やかな景色に意識を向けられない。集中は、物語の「起」は越したが、「承」まで持たなかった。綺麗な丸に収まった、三角屋根の家を押す。画面の明るさが増し、映画、音楽、という項目とともに地図が表示されている。日本が右端にある見慣れない地図だ。円グラフになった到着地までの時間は、1ピースだけ食べられたピザに似ている。

 

もう少しだ。到着に備え少し寝よう、と思うが、目が冴えている。膝にかかっていたブランケットを肩までぐっと上げ、座席と壁の隙間に落ちていた枕を、首元に持って行き微調整をする。しばらく、適当な音楽を聴いていたが手持ち無沙汰になる。インターネットの使えない環境にいることは、かなり久しぶりだった。自分の携帯を手にいれる前、私は何に時間を使っていたんだろうか、と考えてみたりする。ふと、思い出し、乱雑に詰め込まれた鞄を引っ張り出す。最寄駅の本屋で手に入れたガイドブックが入っている。すでに目を通していたが、一ページ目から開いてみた。これから向かう場所へ、想いを馳せる時間が、意図せず設けられた。

 

 

気がつけば、窓の外が白かった。首を回しながら、足下に落ちていた本を拾う。カラフルな見栄えの表紙がグシャっとしていた。見慣れない街並みが雲の隙間から顔をし、お出迎えをしてくれている。朝ご飯を食べ損ねたことは、全く気にならない。搭乗前に買っていたミネラルウォーターを、ほんの少し口に含み、喉に流す。目が覚めてしばらく経っても、コンタクトがごろついている。ポーチから小さな丸い鏡を出し、確認する。すっかり落ちた口紅をさしなおす。いつ見ても乱れていない彼女に、思わず尊敬の念を抱いた。

 

シートベルトのランプが点きしばらく、再び轟音がなる。荷物を取る混雑が終わるのを、座って待つ。半日ぶりに席を立つと、意外と疲れているのを感じた。のろのろと進む列に続く。スコティッシュのくぐもった英語のアナウンスに導かれ、コンベアーから荷物を受け取る。外に出ると、やけに冷たい風が、疲れを連れて行った。

馳せた思いを雲の上に浮かせたまま、私は目的地に着いた。

 

 f:id:buttobi-sweetheart:20170210140140j:image

 

 

 

お読みいただきありがとうございました。

今後も応援お願いいたします。

 

東京藝術大学 卒業・修了制作展 藝大だから

私の在籍する

東京藝術大学卒業・修了制作展が開催中です。

 

1月31日まで、東京芸術大学の敷地内、大学美術館、

東京都美術館で行われています。

 

まだ全部を見に行けてないので、また改めて感想等を載せたいと思います。

 

f:id:buttobi-sweetheart:20170130024426j:plain

 

昨年、今年は、藝大のメディア露出も多く、本も話題となりました。

上野キャンパスの門の前で、取材を行う人も多く見ました。

 

きっと例年より多くの人に足を運んでもらえるでしょう。

ありがとうございます。

 

注目してもらえることは、大変ありがたいことで、

アーティスト志望の学生にとっては名前を売る好機でもあります。

 

ただ、大学が有名になればなるほど、

「藝大だから」

という見方や考え方が広まることを、私は危惧しています。

 

「藝大だから」は良くも悪くも力を持っています。

女だから、男だから、に似ていて危険だと思うのです。

 

藝大だから変わってる、藝大だからすごい、藝大だから仕方ない、藝大だから許される

 

藝大だからに許され、甘んじてきた経験もありますし、

大学のブランドを利用してきたこともあります。

 

しかし、藝大だからに苦しむこともあります。

 

「藝大だから絵がうまいでしょう?」

私は、いいえです。絵は全く書けません。

全くと言っても目と鼻と口はかけますが、全く似せられないし骨格なんて好き放題に歪めてしまいます。

 

私は映像などメディア系がメインなので、

「似顔絵を描いて」には何度も苦しめられました。

 

「藝大だから卒業後はアーティストかな!」

なれたらいいですね、なりたいとも思います。

じゃあ美術館に足繁く通って下さい。あと、日常的にアート作品をたくさん買って下さい。と思ってしまうのです。

 

きっと、東大だから、電通だから、公務員だから、

なんて言葉が同じようにあるんだろうなと思うと

少しやるせない気持ちになります。

 

だから、はいかにもそれが正解で、すべてであるような文を作ります。

だから、という一言で、全てをまとめてしまうのは勿体無いと思います。

 

少し話が膨らみましたが、言いたいことは

 

もし卒業・修了制作展に来てくださる方は

「藝大だから」から少し離れて、作品を見て欲しいということです。

 

すごくて当然ではありません、数多くの失敗や苦悩があって作品があります。

 

一人一人の持つ創造性の豊かさや、込められたメッセージと向き合ってみてください。

 

結果的に、感想が「すごい」になるとしても、

少し見方を変えるだけでより楽しんでいただけるのではないかと思います。

 

 

私の個人的な思いと見解ですが、頭の片隅にでも置いていただけると幸いです。

 

エッセイ 古書に思う

以前書いたエッセイを掲載します

私たちは数多くの出会いをします。

人だけでなく数多くの物とも出会い、中には意味もないものや未知の物との出会いもあります。

 

今回は古びた本との出会いです。

古書に思う

 6月末、日差しもきつくなってきて、汗で体がべたつく。エアコンの効いたお店に入ろうと思っていたが、じめっとした古本屋に惹かれ、立ち寄った。少し栄えた商店街の並びにある古本屋。店先には値段が下げられた本が出され、色あせた洋書が目に付いた。厚みのある本で、ずっしりとした重みがある。深い緑色の表紙にインクは使われてなく、エンボスでタイトルが示されている。

「CLASSIC MYTHS IN ENGLISH LITERATURE AND IN ART 」

 思わず立ち読みする。開いてみると古臭い匂いがした。記憶の奥にあった、祖母の着物のタンスのようなにおいだ。タンスは畳敷きの広い部屋の片隅にあって、子供心に触れてはいけないもののような気がしていたが、ある日、少しだけと、取っ手を引いてみた。ギシギシと音がなり少しだけ開き、中から深い紺色の縮緬のような布が少しだけ顔を出す。と思ったらこれまで嗅いだことのないような匂いが鼻につく。匂いにより、改めてタンスに触ることへの罪悪感を持った。今思えば毎年3月、雛人形を出した時も同じようなにおいがした。 

 匂いに気を取られていたが、よく見ると本にはかなり多くの書き込みがされていた。筆記体で書かれていてうまく読み解くことができない。何について書かれた本であるかも分からないまま、気がつけば、レシートとお釣りを受け取っていた。

 ソファーに座り改めて本を開く。石膏像のようなものが書かれた挿絵や紀元前5年のアメリカの地図が目を引く。見出しが気になったページだけ、単語を調べながらなんとなく読み解いていった。さらにページをめくると、一枚のハガキに出会う。洋書の中で突然出会った日本語に少し驚くが、言葉遣いが見慣れないことに、すぐに気がついた。「號より採用す、至急送附あれ。」宛名は英語通信社で、“郵便はがき”の文字は右から読む。おそらく活版での印刷になっている。ハガキの、本の歴史を感じ、以前の持ち主について想像も膨らむ。ハガキの宛名に連絡をしてみようかとも思ったが、よく分からない、という情緒を壊すべきではないと感じた。

 以前も似たようなことがあった。何の本だったかは覚えていないが、神奈川県内のスーパーのレシートが挟まっていた。私が本を手にする15年ほど前の日付で、夜の8時頃にみたらし団子とビール、チョコレートを買っていた。元の持ち主は仕事終わりに、自分へのご褒美を買ったのだろう。そう私は決めつけた。誰かが本にレシートを挟んだ当時、私はまだ小学生にもなっていなかったが、今、私はその本を手に取り、彼か彼女かも分からない甘党の誰かへ親近感を抱くことになった。

 古びた洋書は高学歴のホームレスのようで、見かけに反して中はやたらと難しい。私は、多分この本を読み終えない。ただ、開くたびに少しだけわかる単語と挿絵を元に、自由に読むことができる。かつてプライドが高かったであろう本は、心外かもしれない。窓を閉め切った私の部屋の空気は淀んでいるが、薄汚れた洋書にはお似合いでもある。本を開くとテレビの音はたちまち邪魔者になり、時間の流れが遅くなる。この本が過去の時間を連れてきたようだ。テレビを消した室内には時計の針の音がして、たまにはこういう時間も悪くない。目の粗い表紙は独特で、持った途端に私を世界に引き込むが、たまに出喰わす凹んだ傷によって私は現実に戻る。本に振り回される日が来るとは思ってもみなかった。

私は再び古本屋に行き、適当な本を端から読み漁り、後から挟まれた何かを探したが、しおりの一つとも出会えなかった。

 

お読みいただきありがとうございました。

あれから半年以上経ちましたが、なかなか意図しない出会いは訪れません。

みなさんが、何か素敵なもの、人と出会えることを願っています。

にほんブログ村 美術ブログへ にほんブログ村 大学生日記ブログへ